特養の現場では、利用者の食事量が落ちたとき、発熱したとき、眠っている時間が増えたときに、すぐ判断を求められることがあります。
受診するのか。入院を考えるのか。点滴は必要か。何とか食べてもらうべきか。
そのたびに私は、「一日でも長く生きてもらうこと」が、いつも本人にとって最善なのだろうかと考えます。
もちろん、必要な医療や介護を控えることを言いたいわけではありません。高齢者だからという理由で受診や治療の機会を狭めることには、私は賛成できません。
私が言いたいのは、本人にとって意味のある支援を、これまで以上に丁寧に手厚くすることです。
「何でもすること」が手厚さではない
高齢者ケアでは、できるだけ長く生きてもらいたいという思いが大切にされてきました。
食べる量が減れば、何とか食べてもらいたい。熱が出れば、病院で診てもらいたい。点滴や酸素、経管栄養など、できる医療があるなら行いたい。
そこには、本人を大切にしたい職員や家族の善意があります。何もしなかったと思いたくない気持ちも、簡単には否定できません。
ただ、その善意が本人の意思や苦痛を置き去りにしてしまうこともあるように感じます。
たとえば、治療によって回復し、また慣れた場所で会話や食事を楽しめる可能性があるなら、受診や入院を含めた積極的な治療には大きな意味があります。
一方で、人生の最終段階に近い状態で、処置や移動そのものが強い負担になっている場合もあります。入院による環境の変化、採血や点滴、頻回な吸引、食事介助の負担などが、不安や混乱、苦痛を強めることもあるでしょう。
医療や介護の量を増やすことと、本人にとって手厚いことは、必ずしも同じではありません。
私は、忙しさだけを理由にした対応には慣れたくありません。同時に、「何かしなければならない」という職員側の不安だけで、本人に負担の大きい介入を重ねることにも慎重でありたいと思います。
見るべきなのは「どれだけ」より「なぜ」
食事量、水分量、体温、血圧、体重、排泄、睡眠、活動量などの記録は大切です。
数字や記録があるからこそ、いつもの状態との違いに気づき、体調変化を早く捉えられることがあります。食事量が減ったときも、単に「食べられていない」と判断するのではなく、感染症、脱水、便秘、口腔内の痛み、薬の影響、眠気、気分、姿勢、嚥下機能など、さまざまな背景を考える必要があります。
食べられない原因が治療やケアによって改善できる可能性があるなら、評価し、必要な対応につなげることは重要です。
ただし、数値だけでは分からないこともあります。
食べることを嫌がっているのか。口を開けること自体が苦痛なのか。眠りたいのか。口の渇きや痛みがあるのか。いつもの好物なら口にできるのか。本人は今、何を不快に感じているのか。
数字は大切です。でも、数字だけではその人は見えません。
食事量が減ったことを「何とか増やさなければならない課題」とだけ捉えるのではなく、その人の状態や気持ちを考える入口にしたいと思います。
判断するときに共有したい四つの視点
受診、入院、点滴、食事介助、経管栄養などを考えるとき、私は一つの答えだけで決めないことが大切だと考えています。
まず見たいのは、治療や介入による回復可能性です。
症状が改善する見込みはあるのか。苦痛が和らぎ、再び本人らしい生活へ戻れる可能性はあるのか。医学的な評価は、医師をはじめとする専門職と共有しながら考える必要があります。
次に、本人の意思です。
今の言葉だけでなく、過去にどのような暮らし方や最期を望んでいたのか、何を嫌がり、何を安心としてきたのかを知ろうとすることが欠かせません。言葉にできない場合でも、表情、しぐさ、拒否、落ち着く関わり方は、大切な意思表示になり得ます。
三つ目は、利益と負担のバランスです。
受診や入院、検査、点滴、食事介助などには、期待できる利益があります。一方で、痛み、不安、拘束感、環境の変化、混乱といった負担もあり得ます。その介入は、本人にとって得られるものが負担を上回るのかを考えなければなりません。
そして四つ目は、今のケア目標です。
回復を目指すのか。苦痛を和らげることを優先するのか。住み慣れた施設で過ごすことを守るのか。家族との時間を大切にするのか。
目標が曖昧なままでは、「とりあえず受診」「とりあえず点滴」「とりあえず食べさせる」という判断になりやすいように思います。
「しないこと」は、何もしないことではない
終末期や老衰の経過では、食事や水分をとる量が少なくなり、眠っている時間が増えることがあります。
そのすべてを自然な経過だと決めつけることはできません。治療できる原因が隠れていることもあるため、状態を丁寧に観察し、必要に応じて医師や多職種に相談することが必要です。
一方で、処置や食事介助のたびに強い苦痛や拒否が見られ、積極的な介入による利益が乏しいと考えられる場面もあります。
そのときに、無理な介入を控えることは、本人を見捨てることとは違います。
口腔ケアで口の中を整えること。体位を調整して楽な姿勢を探すこと。皮膚の状態を守ること。痛みや呼吸の苦しさ、不安、不眠、便秘などを早く捉えること。なじみのある人との会話や、安心できる環境をできるだけ保つこと。
こうした関わりもまた、積極的なケアです。

厚生労働省の「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」でも、本人による意思決定を基本とし、本人・家族等と医療・ケアチームが十分に話し合うことが示されています。本人の意思確認が難しい場合には、家族等が推定できる意思を尊重し、本人にとっての最善を考えることが基本とされています。mhlw+1
大切なのは、延命をするか、しないかという二択だけではありません。
その人にとって、何が安心につながるのか。何が苦痛なのか。今、守りたい生活は何かを、繰り返し考えることではないでしょうか。
高齢者を切り捨てないために
高齢化によって医療や介護を必要とする人が増え、社会保障費や人材不足、病院の負担が課題になっていることは事実です。
けれども、その答えを「高齢者に医療を使わせないこと」にしてはいけないと思います。
必要な受診や治療を受けられることは、年齢にかかわらず守られるべきです。回復が見込める状態であれば、治療をためらわないことも大切です。
ただし、効果が乏しく本人の負担が大きい医療や介護を、「長く生きてもらうため」という言葉だけで続けることにも、私は違和感があります。
高齢者を一律に手厚くするとは、すべての人に同じ医療や処置を増やすことではありません。
本人の意思、苦痛、回復の可能性、生活の質を見ながら、その人にとって意味のある支援を、以前より丁寧に手厚くすることだと思います。
ケアの質は、どれだけ多くの処置をしたかでは測れません。
本人が苦痛を少なく過ごせたか。自分らしさを保てたか。大切な人との時間を持てたか。十分に説明され、自分の思いを扱ってもらえたと感じられたか。
私は、本人の意思を確認する手間を省きたくありません。
「何もしない」のではなく、その人にとって必要なことを見極め、苦痛の少ない時間と尊厳を守る。これからの高齢者ケアには、そんな手厚さが必要なのだと思います。
注意書き
この記事は一般的な情報と筆者の経験をまとめたものです。
個別の対応は状態や背景によって異なるため、主治医や関係する専門職、
所属施設の手順に相談してください。


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