介助される姿は、誰かの娯楽ではない――看護師による患者のSNS投稿報道に思うこと

施設看護

今月に入って、病院で働く看護師が入院中の患者さんを無断で撮影し、SNSに投稿していたという報道が続いています。

食事をしている姿。治療を受けている場面。そこに、からかうような言葉が添えられていたという報道もありました。

特別養護老人ホームで働く看護師として、私はこのニュースを他人事として読むことができませんでした。

介助される姿は、本人が選んだ姿ではない

私が言いたいのは、ケアの場面で見えている本人の姿は、本人が「見せたい」と選んだ姿ではない、ということです。

食事の介助を受けているとき。おむつを替えてもらっているとき。眠っているとき。思うように体が動かないとき。

その人は、仕方なく、あるいは信頼して、その場面を職員の前に置いているのだと思います。

だからこそ、その姿を職員の側の笑いや話題に使ってよい理由は、一つもないと私は考えています。

「フォロワー限定だった」「すぐ消した」「仲間内だけのつもりだった」。
そういう説明があったとしても、撮られた本人の側から見れば、何も変わらないのではないでしょうか。

本人の知らないところで、本人の弱っている姿が誰かの娯楽になる。
私は、それをケアの延長にある小さな失敗として扱いたくありません。

「やってあげている」という感覚の危うさ

ケアの現場では、どうしても職員が動き、本人が受ける形になりがちです。

体を支える。食事を口に運ぶ。着替えを手伝う。
その積み重ねの中で、気づかないうちに「私がやってあげている」という感覚が育ってしまうことがあるように思います。

たしかに、介助がなければ生活が成り立たない場面はあります。
でも、それは本人が下にいて、職員が上にいるという意味ではありません。

私は、介助を受けている人の前ほど、言葉や態度に慎重でありたいと思っています。
相手が言い返せない状況にあるなら、なおさらです。

今回の報道について、厳しい勤務やストレスに触れる声もありました。
現場の疲れは、私も軽く扱いたくありません。人手が足りない日の重さも知っています。

それでも、疲れていることと、本人の尊厳を傷つけてよいことは、まったく別の話です。
疲れは、別の形で受け止められるべきものだと思います。

写真も数字も、本人の一部しか切り取らない

施設看護師として、私は日々たくさんの記録に触れます。

食事が何割だったか。水分がどれくらい入ったか。体温、血圧、排泄、睡眠。
こうした数字は、いつもとの違いに気づくための大切な手がかりです。

一方で、数字だけではその人は見えません。

たとえば「食事摂取量が少なかった」という記録の裏には、眠気、姿勢の合わなさ、口の中の痛み、食べにくい形態、気分の落ち込み、その日の好みなど、いくつもの事情が隠れているかもしれません。

私は、記録を読むときほど「その時、本人に何が起きていたのか」を考えたいと思っています。

SNSに上げられた一枚の写真や短い動画も、少し似ているように感じます。
切り取られた数秒には、その人の生活も、そこに至る経過も、本人の気持ちも映っていません。

背景を知らない人が見れば、ただの「面白い場面」に見えてしまうこともあるでしょう。
でも、その数秒の外側にこそ、その人がいるはずです。

数字も写真も、本人の一部です。全部ではありません。
私は、どちらも本人を理解するために使うものであって、本人を見下ろすために使うものではないと考えています。

スマートフォンは、いつもポケットにある

想像してみることがあります。

食事の介助をしている途中、口元を気にして、そっと手で隠そうとする方がいたとします。
その仕草には、「こんな姿を見られたくない」という気持ちが込められているのかもしれません。

そのとき、職員のポケットにはスマートフォンが入っている。
撮ろうと思えば、数秒で撮れてしまう距離です。

だからこそ、現場で働く一人ひとりが、自分の中に線を引いておく必要があるように思います。
「撮らない」「共有しない」「話題にしない」という線です。

もちろん、個人の心がけだけに任せてよい問題でもありません。
私物の端末の扱い、写真や情報の取り扱い、困ったときに相談できる雰囲気。
気になる言動に気づいたとき、責めるのではなく早めに声をかけ合える関係も大切でしょう。

具体的なルールは、それぞれの施設や病院の手順によって異なります。
ただ、どんな手順があっても、最後に問われるのは「本人がこれを知ったらどう感じるか」という想像力ではないかと思います。

私が慣れたくないこと

報道されたのは、医療や介護の現場で働く人のごく一部の行為なのだと思います。
多くの職員が、誰に見られていなくても、本人のために手を動かしていることも知っています。

だからこそ、「一部の人の話だから」で終わらせたくありません。

介助される側は、多くの場合、職員を選べません。
見られたくない姿を見せる相手を、選べないこともあります。

その信頼の上に、私たちの仕事は成り立っています。

私は、本人の弱っている場面を「よくある光景」として扱うことに慣れたくありません。
忙しい日でも、疲れている日でも、目の前の人がどんな気持ちでその姿を見せているのかを、想像することをやめたくないと思っています。

本人の尊厳は、記録の外側にも、カメラの外側にも、ちゃんとあるはずです。

注意書き

「この記事は一般的な情報と筆者の経験をまとめたものです。
個別の対応は状態や背景によって異なるため、主治医や関係する専門職、
所属施設の手順に相談してください。」

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