特養で「安全のため」と言うとき、本人の自由はどこへ行くのだろう

施設看護

特養で働いていると、「安全のため」という言葉をよく使います。

転倒してほしくない。医療上の危険を避けたい。体調を崩さず、穏やかに過ごしてほしい。どれも大切な願いです。私自身、看護師としてその言葉を使ってきました。

それでも、ときどき立ち止まります。

安全を守ろうとするなかで、その方が自分で動くこと、自分の思いを表すことを、私たちが狭めてはいないだろうか。

「危ないから」が増えるとき

介護の現場では、転倒やけがを防ぐことが強く求められます。何か起きたときの痛みや影響を思えば、慎重になるのは自然なことです。

一方で、「危ないから座っていてほしい」「動かない方が安心」という考えが続くと、本人の「動きたい」はどこに置かれるのだろう、と私は感じます。

もちろん、立ち上がりや歩行がその時点でどれほど危険かは、一人ひとり違います。希望があるからといって、何の支えもなく動いてもらえばよいわけではありません。

だからこそ、ただ止めるか、ただ任せるかの二つに分けたくないのです。

そばで見守る方法はないか。環境を変えられないか。時間帯や体調によって対応を変えられないか。本人が何をしたくて動こうとしているのか。

そこを考える前に、私たちにとって管理しやすい方法へ傾いていないか。自分自身にも問いかけています。

忙しさは、理由になるのだろうか

現場には、同時にいくつもの仕事があります。急な体調変化への対応が入り、予定していたことが後ろにずれる日もあります。

一人ひとりに十分な時間を使いたくても、そうできない。誰かが手を抜いているからではなく、人手や時間に余裕がないなかで、職員も懸命に働いています。

その現実を知っているからこそ、私は簡単に「こうすればよい」と言えません。

ただ、忙しさが続くうちに、「ほかに方法はないだろうか」と考える時間まで失われていくことには、違和感があります。

決められた対応を今日も続ける。その方が仕事は回るかもしれません。でも、昨日と今日で本人の状態や気持ちは同じとは限りません。

一度決めた方法を見直せなくなったとき、守ろうとしていた「安全」は、誰にとっての安全なのだろう。私には、そう見える場面があります。

薬も、言葉も、環境も

本人の行動に困ったとき、医師の判断に基づいて薬を使うことが必要な場合もあります。苦痛や不安を和らげるための治療まで、一律に否定したいわけではありません。

けれど、職員が対応しやすくなることばかりを目的に、本人の動きを抑えようとしていないかは、分けて考えたいです。

言葉のかけ方や、過ごす場所の整え方も同じです。私たちは善意で「危ないですよ」と声をかけます。それが必要なときもあります。

一方で、同じ言葉を繰り返し受け取る本人には、どう聞こえているでしょうか。何をしようとしたのか尋ねる前に、その方の意思を小さくしていないでしょうか。

「薬を使わなければよい」「自由に動いてもらえばよい」という単純な話にはできません。本人の希望、苦痛、医学的な状態、家族の思いもあります。だから、看護職だけ、介護職だけで抱えず、多職種で確かめ直す時間が必要だと感じています。

私も、その現場の一人

ここまで書きながら、私だけは違う場所に立っているかのように見えないだろうか、と気になります。

私も忙しさに追われます。「いまは危ないから」と言って、本人の思いを十分に聞けなかったことがあるかもしれません。目の前の仕事を回すことを優先して、いつもの対応を見直せなかったこともあると思います。

だから、誰か一人を悪者にしたいのではありません。

ただ、職員が迷いを口にしにくく、「仕方がない」で話が終わる空気があるなら、それを当たり前にしたくないのです。

何かをすぐ変えられるとは言えません。それでも、本人の行動を制限しているように感じたとき、「なぜ必要なのか」「ほかの方法はないのか」「いつ見直すのか」を問い続けたいと思います。

安全を大切にすることと、本人の自由を大切にすること。どちらかを選べば終わる話ではなく、私にはまだ迷いが残っています。

その迷いを、忙しいからという理由で手放したくありません。

5. 注意書き

この記事は一般的な情報と筆者の経験をまとめたものです。個別の対応は状態や背景によって異なるため、主治医や関係する専門職、所属施設の手順に相談してください。

※身体拘束に当たるかどうかは「安全のため」という目的だけで判断せず、行動の制限の有無や個別の状況を確認する必要があります。厚生労働省の手引きでも、緊急やむを得ない場合を除いて身体拘束は原則禁止とされています。

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